北海道開拓の村は、明治から昭和初期にかけて北海道で作られた建築物を移築したり復元して展示している野外博物館です。
最近では写真撮影で利用されたり、北海道を舞台にした漫画「ゴールデンカムイ」の資料として北海道開拓の村内の建物が描かれていることで聖地巡礼としても人気の観光スポットとなっています。
この記事では公開されている52の建築物をすべて筆者自身が撮影した写真を元に紹介しています。
北海道開拓の村へのアクセス方法と詳細
- 住所:〒004-0006 北海道札幌市厚別区厚別町小野幌50-1
- 電話番号:011-898-2692
- スマホなら上記電話番号タップで電話出来ます
- 営業時間:後述
- 定休日:後述
- 入場料:大人800円/高校・大学生600円/中学生以下及び65歳以上無料
- 駐車場:あり(無料・400台)
- マップコード:139 150 422*37
- 公式サイト:北海道開拓の村
北海道開拓の村の営業日と休日
北海道開拓の村の営業日及び休村日は下記の通りです。
期間 | 営業時間 | 休村日 |
4月 | 9:00~16:30 (入村16:00まで) |
月曜日 (祝日の場合は翌日) |
5月~9月 | 9:00~17:00 (入村16:30まで) |
無休 |
10月~3月 | 9:00~16:30 (入村16:00まで) |
月曜日(祝日の場合は翌日) 12/29~1/3 |
上記以外に臨時休村日が1~2日あります。
北海道開拓の村へのアクセス方法・行き方
北海道開拓の村へのアクセス方法・行き方は
- 公共交通機関・電車(地下鉄orJR線)+バス
- 車
となります。
車での行き方
車の場合、電話番号もしくはマップコードをカーナビで登録すれば迷うことなくたどり着けます。
札幌の中心部(札幌駅や大通公園付近)からだと混雑していなければ30分くらい、混雑していると1時間近くかかることがあります。冬期だと1時間はみてください。
(*以下、PCであれば画像クリックで拡大します。また拡大後は画像だけを見ていくことも可能です)
駐車場は400台あるので概ね駐車に困ることはありません。
なお北海道開拓の村は「野幌森林公園」内にあり、野幌森林公園の駐車場からだとかなり遠いので1番奥となる「北海道開拓の村」駐車場に停めることをおすすめします。
また野幌森林公園内にある北海道博物館や北海道百年記念塔に向かう場合は車でそれぞれ移動するのが便利です。
公共交通機関での行き方
JR千歳線「新札幌駅」もしくは地下鉄東西線「新さっぽろ駅」で下車
その後JR北海道バス「新22 開拓の村線」に乗り終点の「開拓の村」で下車となります。
バス停を降りて徒歩1分ほどで開拓の村の受付です。
なおバスの時間は概ね1時間に1本までなのできちんと帰りのバスの時間を見てバスの時間に合わせて戻らないと1時間近く待つことになるので注意してください。
出来ればここは車で来ることをおすすめします。
北海道開拓の村 入口・受付
バス停もしくは駐車場から歩いてくると開拓の村の受付のある「旧札幌停車場」には正面の階段を上ってくる方法と横のスロープを上ってくる方法があります。
車椅子の方でもスロープがあるので受付までは問題なく来ることが出来ます。ただし坂道なので状況によっては後ろから押してもらわないといけないためご注意ください。
中に入ると右側にコインロッカーがあるので荷物が多い人はコインロッカーに入れるようにしましょう。
開拓の村はかなり広く重い荷物を持って回るのはかなり不便です。
中に入って右前方がチケット売場、左全貌が売店及びお土産売場です。
売店の奥には休憩場もあり、中には開拓の村のミニチュアも展示されています。
休憩室に置かれている椅子・ベンチは昔懐かしい感じのするものとなっています。
そして受付をして北海道開拓の村の中へ!
北海道開拓の村 馬車鉄道
北海道開拓の村は夏季(4月から11月)は馬車鉄道、冬期(12月から3月の土日祝及びさっぽろ雪まつり期間の毎日)は、馬ソリが運行されています。
開拓の村の中はとても広いので全て徒歩で回るとかなり疲れます。まずは馬車鉄道や馬ソリに乗って奥まで進み奥から見ることをおすすめします。
馬車鉄道及び馬そりの乗車料は大人(15歳以上)250円、小人(3~14歳)は100円となっています。
なお天候によっては運休することもあります。
実際に馬車鉄道に乗ってみました。
馬一頭で重たい馬車を運ぶのですからそれほどスピード感なんて無いだろうと思っていましたが、これが意外とスピード感があり楽しめます。
また馬を見るのも可愛くておすすめです。
ただ疲れ気味になってやや暴走気味に馬がなる時もありますので馬車内では座っていてくださいね。
馬車は市街地群と呼ばれるエリアの中央を通り、農村群の入口まで進みます。
この市街地群には古い北海道の建物が並び、その景色を見るのがおすすめです。
馬車の通ったところを帰りは歩いて戻ってくると街並みを楽しめます。
北海道開拓の村 市街地群の建物一覧
北海道開拓の村の「市街地群」には現在31の建物が展示されています。
建物の前には案内板が立てられておりナンバーが割り振られています。
北海道開拓の村 旧札幌停車場(No.1)
No.1の建物は入口になっている「旧札幌停車場」です。
この建造物は、明治41年(1908)に建てられた札幌停車場の正面外観を縮小再現したもので、昭和27年(1952)まで使われてきた。外観は、米国の同じ頃の木造建築に用いられたスティックスタイルと呼ばれる形式が取り入れられ、下見板と棒(スティック)による模様付けが特徴である。
と案内板では解説されています。
札幌停車場とは昔の札幌駅のことです。電車ではなくまだ汽車と呼ばれていた時代の駅です。
縮小されて再現しているので本物はもっと大きかったことになりますね。
北海道開拓の村 旧開拓使札幌本庁舎(No.2)
2番目の建物は「旧開拓使札幌本庁舎」です。
外観は明治6年(1873)に建てられた開拓使札幌本庁舎を再現したものである。開拓使札幌本庁舎は開拓使顧問ケプロンの構想に基づき、開拓使工業局営繕課が担当した。築後5年目の明治12年、火災のため焼失した。建物の内部は総合案内・情報サービスコーナー、講堂、研修室があり、見学の事前事後の学習・休憩などに利用できる。
火災で消失した建物を再現したということでかなり綺麗な建物です。
2階には休憩するスペースもありました。
馬のミニチュアや開拓の村のジオラマが展示されています。
北海道開拓の村 旧手宮駅長官舎(No.3)
3番目は少し地味な建物ですが味のある「旧手宮駅長官舎」です。
明治13年(1880)北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設された。その職員官舎として建てられたのがこの建物である。骨組みや上げ下げ窓など外部の意匠に洋式の手法が用いられている。手宮官舎5号と呼ばれていたもので、同じ形式のものが6棟建てられていた。
特に何も縮小とか再現とか書かれていないので実物を移築したものと思われます。
北海道開拓の村 旧開拓使爾志通洋造家(No.4)
4番目は、旧開拓使爾志通洋造家です。
この建物は開拓使の官舎として建てられたが、完成後、順次払い下げられた。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風だが、内部は座流し・畳敷きなどの和風で、和洋折衷である。外観に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で、1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていた。
白く綺麗な洋風の建物ですが中は和風部分もあるということで面白い作りの建物です。
中を見学することも出来ます。
北海道開拓の村 旧福士家住宅(No.5)
5番目は、旧福士家住宅です。
幕末から明治期にかけて、造船・通訳・気象観測・測量など広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊〔天保9年(1838)~大正11年(1922)〕が、明治半ばから大正11年まで居住した建物である。明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物である。
福士成豊を知らない方も多いかと思いますが、同志社大学の創立者で日本で初めて気象観測を行った人物として偉大な功績を持つ方です。
北海道開拓の村 旧松橋家住宅(No.6)
6番目は旧松橋家住宅です。
明治・大正・昭和にわたる都市生活者の住宅で、大正7年(1918)以来松橋家が居住していた。松橋家は、明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業及び土地会社経営に従事した。建築以来数度の増改築が見られるが、大正7年の状況に復元した。
わざわざ大正7年の時の状態に復元しているというのはそれだけ当時のものを展示したいという気持ちの現れですね。
北海道開拓の村 旧有島家住宅(No.7)
7番目は、旧有島家住宅です。
日本近代文学史上の代表作家の一人である有島武郎〔明治11年(1878)~大正12年(1923)〕が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んだ建物である。一般の住宅にも、上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物である。
有島武郎と言えば「カインの末裔」「或る女」等の代表作がある日本を代表する作家の1人です。
札幌農学校時代の恩師は新渡戸稲造(旧5000円札の人物)です。
北海道開拓の村 旧浦河支庁庁舎(No.8)
8番目は、旧浦河支庁庁舎です。
明治30年(1897)、北海道庁が郡区役所を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河支庁が置かれた。この建物は、大正8年(1919)に地元の浦河村および道庁の費用で建築され、昭和7年(1932)日高支庁と改称。昭和31年(1956)浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として利用されていた。
白い洋館の建物で入口からも近いため、目を惹きます。
浦河村は現在、浦河町となっており札幌から襟裳岬に行く途中に通過する町です。
北海道開拓の村 旧小樽新聞社(No.9)
9番目は、旧小樽新聞社
小樽新聞社は明治27年(1894)に創立された。函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つであった。この建物は、木造の骨組みに札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を外壁に積み上げた構造で、明治期石造建築の特徴を示している。
明治時代には札幌軟石という石でよく建物が作られていました。
札幌の中心では大通公園の西端にある「札幌市資料館」も札幌軟石で作られています。
中も見学出来て昔、どのように印刷されていたかも知ることが出来ます。
北海道開拓の村 旧開拓使工業局庁舎(No.10)
10番目は、旧開拓使工業局庁舎です。国の重要文化財にも指定されています。
明治6年(1873)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校などの施設をはじめ、家財、機械・農具・車両などの製造事業を行い、本道開拓の発展に大きな業績を残した。この建物は明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎としては現存する唯一のものである。
開拓使関係庁舎として現存する唯一の建物ということを知ると興味を持ちますよね。
重要文化財にもなっているので見逃せない建物の1つです。
北海道開拓の村 旧北海中学校(No.11)
11番目は旧北海中学校です。
この校舎は、明治41年(1908)から翌年にわたって建築された本館部分である。創立は明治38年(1905)で、前身は札幌農学校第三期生らが中心となり明治18年(1885)に設立した私立北海英語学校である。外観の意匠は、明治半ばから大正期の官庁や学校の木造建築によく見られる様式である。
昔の学校という雰囲気が伝わってくる建物です。
内部も見学出来るようになっています。60歳以上の方ならこんな教室で授業を受けたことを思い出し懐かしくなると思います。
北海道開拓の村 旧龍雲寺(No.12)
篠路山龍雲寺は明治19年(1886)頃、村民の努力によって創建された浄土宗の寺である。この建造物は、明治28年(1893)頃に新築落成した本堂で、開拓期の農村の寺院建築の様式をよくあらわしている。正面入り口の向拝部分は大正年間に増築されたものである。
12番目の建物は、旧龍雲寺というお寺です。鐘も含めて展示されています。
北海道開拓の村 旧札幌警察署南一条巡査派出所(No.13)
13番目は、旧札幌警察署南一条巡査派出所です。
明治18年(1885)、札幌創成橋の脇に最初に建てられた交番は木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていた。同じ木造で一度改築されたが、その後個人の篤志寄付で建てかえられたのがこの建物である。壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表して積むイギリス積み手法を用いている。
北海道開拓の村にはリアリティのために人間と等身大の人形が置かれています。
この派出所にも置かれているのですが、時として2体の人形があると思いきや、警察官の格好をしたボランティアの案内の方が座っている時もあり、突然動き出してびっくりすることもありますが、驚き過ぎないようにしてくださいね。
北海道開拓の村 旧島歌郵便局(No.14)
14番目は、旧島歌郵便局です。
北海道で近代郵便の取り扱いが始まるのは明治5年(1872)で、島歌には明治19年(1886)に郵便局が設置された。明治26年(1893)には畑野清治が2代目局長として就任し業務を取り扱った。以後この局は畑野家により引き継がれてきた。この建物は業務用だけで、局長や職員の住居は別棟であった。
昔は郵便局の局長が世襲されていたんですね。
北海道開拓の村 旧山本理髪店(No.15)
15番目は、旧山本理髪店です。
傾斜の急な切妻屋根、妻軒の棟折れマンサード、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観は理髪業とよくなじみ、北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として長く親しまれてきた。
この理髪店は漫画「ゴールデンカムイ」のモデルとして漫画の中で描かれています。
中に人形が置いてあるのですが、鏡に映る理容師さんが「今から殺ります」という雰囲気を物凄く醸し出していて、少し怖いワンシーンとなっています。
北海道開拓の村 旧渡辺商店(No.16)
16番目は、旧渡辺商店です。
明治30年代には砂金掘りでにぎわい、大正5年の鉄道開通後は交通の要所として発達した中頓別市街に建てられた雑貨店である。漆喰仕上げの土蔵造りは、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造であるが、北海道では建築例が少ない建物である。
漆喰(しっくい)を仕上げに使っているのは北海道では非常に珍しいとのこと。
漆喰と言えば北海道なら豊平館の天井の装飾も有名ですよ。
中には当時を再現して雑貨が並べられています。
北海道開拓の村 旧浦河公会会堂(No.17)
17番目は、旧浦河公会会堂です。
明治13年(1880)、神戸において北海道開拓会社「赤心社」が設立され、翌14年から西舎村や荻伏村に結社移民として入植した。「赤心社」の指導者の多くはキリスト教徒で、明治19年「浦河公会」が組織された。この会堂は、2代目の礼拝・集会所として明治27年(1894)に建てられたものである。
ということで教会的な使われ方をされていた建物です。
北海道開拓の村 旧来正旅館(No.18)
18番目は、旧来正旅館です。
東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年(1898)退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業した。大正7年(1918)に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開した。当時は、旅人の宿泊や汽車の待合などに利用されてにぎわった。
昔の駅の待合所兼旅館として使われてきた建物ということで、目立つように作られた建物でした。
中では「明治・大正の駄菓子」としてお菓子が販売されていました。思わず購入して食べてしまいました。
北海道開拓の村 旧三ます河本そば屋(No.19)
19番目は、旧三ます河本そば屋です。ますの字は旧漢字のため機種依存文字なのでここではひらがなで表記しています。
この建物は、明治18年(1885)頃に石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、そば屋の修行を積み、三ますそば屋ののれんを継いで新築した店である。小樽市街の中でも最も栄えた地域にあったこのそば屋は食事や宴会の場として多くの人々に利用されていた。
煙突が正面にあるため、一瞬蕎麦屋さんには今の感覚だと見えませんよね。
中を見学することも出来ます。
北海道開拓の村 旧武井商店酒造部(No.20)
20番目は、旧武井商店酒造部です。
この建物は、茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、明治19年(1886)頃建てたものである。酒造業は9年後の明治28年(1895)頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年(1944)まで続けられた。
酒造部ということで昔はこの中でお酒が作られていたのでしょう。
中を見学することも出来ます。
北海道開拓の村 旧近藤医院(No.21)
21番目は、旧近藤医院。病院です。
この建物は、明治33年(1900)に函館病院から古平病院長として招かれ同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年(1958)まで使われた。石造2階建の倉は明治後期に建てられた文庫倉で、清吉の書庫及び研究室として使われた。
意外と奥に長い建物です。
こちらも中を見学出来ます。
こういう病院、昭和50年くらいまでは結構見かけましたよね。
北海道開拓の村 旧近藤染舗(No.22)
22番目は入口からでも一際目立つ、旧近藤染舗です。
近藤染舗は、明治31年(1898)に創業された旭川で最も古い染物店である。この建物は、店の繁盛に伴い大正2年(1913)に地元の建築業者によって新築された店舗兼住宅である。外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしている。
藍色が綺麗な建物です。
中に入るとセンサーがあるのか、人形が話し出して会話をしています。
会話のバージョンもいくつかあるようです。
突然話し出す人形のため、慣れていないとびっくりします。
北海道開拓の村 旧武岡商店(No.23)
23番目は、 旧武岡商店です。
武岡家は、旧徳島藩家老稲田邦植に従い明治4年(1871)に淡路島から静内郡に移住し、明治15年(1882)から米穀、雑貨、荒物などを扱ってきた商家である。町の発展に伴い本格的な店舗兼住宅を新築し、明治34年(1901)には郵便局を開設するなど、この地方の商業の中心的役割を果たした。
明治時代に淡路島から北海道まで移住するって凄いことだったんでしょうね。
こちらも中を見学出来ますので時間があれば是非。
北海道開拓の村 旧大石三省堂支店(No.24)
24番目は、旧大石三省堂支店です。
札幌で家業である菓子製造の技術を習得した大石泰三が、大正14年(1925)帯広町の繁華街電信通りに店舗を求め、菓子の製造販売を始めた建物である。親子二代にわたり、昭和30年まで続いた。店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場とを再現したものである。
ということで中に入るとお菓子屋さんだったことがすぐに分かります。
それは・・・
お菓子が展示されているからです。
昔のお菓子なので今ではあまり販売されていないものもありますが、こういう木枠のガラスケースに入ったお菓子、以前はよく見かけました。
北海道開拓の村 旧太田装蹄所(No.25)
25番目は、旧太田装蹄所
大正13年(1924)から昭和20年(1945)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(今の国道12号)沿いで営業していた装蹄所を再現した。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村にもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種であった。
今ではほぼ無くなった装蹄所
時代の流れで無くなるものはいくつかありましたよね。
中を見てみると人形が馬蹄を作っている様子を再現しています。
また馬の人形まで置かれていました。
北海道開拓の村 旧藤原車橇製作所(No.26)
26番目は、旧藤原車橇製作所です。
明治31年(1898)、兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、同36年(1903)には妹背牛で車橇製造を開業した。以後3代にわたり営業を続けた。この建物は、開業以来使われてきた車橇製作所を再現したものである。作業場と住宅から成り、木造切妻平入りの構造である。
橇は「そり」と読みます。
北海道開拓の村 旧本庄鉄工場(No.27)
27番目は、旧本庄鉄工場です。
明治30年から2代にわたって営業した本庄鉄工場の仕事場として、大正14年(1925)から昭和50年代まで使用されていた。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などを作っていた。開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物である。
農具を作るのも鉄工場だったんですね。
庭の井戸も再現されていました。
北海道開拓の村 旧広瀬写真館(No.28)
28番目は、旧広瀬写真館です。
この建物は、大正末期から昭和33年(1958)まで岩見沢市街で営業した写真館を再現した。外観は洋風であるが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物である。撮影には自然光を用いたため、写場は2階に設け、北側の屋根をシングルスラントと呼ばれた斜めのガラス張りとしている。
ここで今でも残り写真が撮影されていたかもしれませんね。
ここも中は見学出来るのでカメラ好きな方は是非2階のスタジオとして使っていたところを見てください。
北海道開拓の村 旧札幌拓殖倉庫(No.29)
29番目は旧札幌拓殖倉庫です。
札幌軟石を使用したこの倉庫は、五十嵐倉庫合名会社より明治45年創立の札幌拓殖倉庫株式会社に引きつがれた。この建物は札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟である。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献した。
札幌駅に隣接してこんな建物があったとのこと。
レンガ造りの建物はやっぱり美しいですよね。
開拓使のシンボルの星が上の方に取り付けられていました。
この倉庫の中は昔の農機具やミシン等が展示されています。
何に使ったのか今ではもうよく分からないものから農機具まで幅広く展示されています。
北海道の歴史を知る上で農機具は切っても切れない関係です。
市街地群の道の様子・風景
市街地群には後2つ建物がありますが、少し離れているので紹介の前に市街地群の道の様子も見てみましょう。
基本的に道はアスファルトです。土の方が雰囲気は出ると思いますが、メンテナス等を感が手アスファルトなのでしょうね。
なおここまで建物を全部しっかり見ると1時間以上かかります。
北海道開拓の村 旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)(No.30)
30番目は、旧札幌農学校寄宿舎です。
開拓使仮学校に始まる札幌農学校(現北海道大学)は、明治9年(1876)現在の時計台付近に開学した。明治36年に現在の大学の位置へと移転して寄宿舎も新築され、同40年に“恵迪寮”と命名された。当時は玄関棟と2棟36室および厨房棟があったが、ここでは玄関棟と2棟12室を復元した。
恵迪寮は元々は今の北海道大学の中にあったため、北大の中に恵迪寮の石碑がたっています。
床が木製の廊下、ノスタルジーな感じがしますね。
中には資料も展示されています。
昔の寮のベッドって畳だったんですね。
中は見学出来るので時間があれば是非見てください。
北海道開拓の村 旧札幌師範学校武道場(No.31)
31番目は、旧札幌師範学校武道場です。
この建物は、北海道教育大学札幌校の前身である北海道札幌師範学校の武道場として昭和4年(1929)に建設された。入母屋造り、平入りの和風建築意匠を強調した木造平屋建ての建物で、剣道、柔道場として使用されたが、戦後昭和24年(1949)からは一時図書館、ついで第二体育館として利用された。
洋風の建物が多い中、和風の建物です。
この中も見学出来るようになっています。
北海道開拓の村 漁村群の建物一覧
市街地群の奥には池があり、その周りには漁村群エリアがあります。
北海道の昔の漁師の様子を知ることが出来ます。
北海道開拓の村 旧土谷家はねだし(No.32)
32番めは、旧土谷家はねだしです。
はねだしは、鰊漁家の付属施設として海岸の地形に合わせ海側へ跳ね出す形で建てられた倉である。床には開口部が設けられており、直接荷物の出し入れを行うこともできる。この倉は漁具、漁穫物、魚粕・身欠鰊・数の子などの加工品を収納するために使用された。
北海道で明治・大正時代と言えばニシン漁が盛んでした。
鰊御殿と呼ばれる家もいくつかあります。
この建物は表からよりも裏から見た方が見栄えがするようになっていました。
すぐ裏に「海」と名付けられた池があり、池を海に見立てて再現しています。
北海道開拓の村 旧青山家漁家住宅(No.33)
33番目は、旧青山家漁家住宅です。
青山家は、安政6年(1859)山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家である。建網経営には番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要とした。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つである。
写真の建物だけでなく他にいくつかの建物が展示されています。
面白いのが米蔵で米俵がこんもりと積まれていました。
ニシンの釜炊きの様子がパネルで展示されています。
びっくりするのが母屋の様子
所狭しと布団が置かれ大人数で寝るようになっています。タコ部屋です。
昔のニシン漁の規模が伺える展示物です。
北海道開拓の村 廊下(No.34)
34番目は、廊下と呼ばれる建物です。
廊下は、陸揚げしたニシンを一時収蔵するための施設であるが、漁期後は船・櫂・櫓などの大型の漁労具や加工用具を収納する倉としても利用された。壁の落とし板構造は、魚の搬入や建物の周囲で行われた「ニシンつぶし」と称した加工作業に便利なように工夫したものである。
かなり大きな建物です。
中にはニシン漁で使われていた船が展示されていました。
かなり大きな船です。
北海道開拓の村 旧秋山家漁家住宅(No.35)
35番目は、旧秋山家漁家住宅です。
秋田県男鹿半島から明治末期に移住した秋山嘉七が、ニシン漁で繁栄していた時期に建てた住宅である。同家では三代にわたり、ニシン刺網漁のほか磯廻り漁などを続けながら、昭和53年(1978)まで住んでいた。建物は洋風の棟飾りをもつ、ヨツヤと呼ばれる寄棟造りである。
一般的な漁師の家という感じの作りになっていました。
北海道開拓の村 海と池
漁村群エリアの裏側には池があります。
中央に橋がかかり1つを池なっていますが、もう1つは「海」と表現されています。
天気が良い日はこの辺りで休憩するのもおすすめです。
北海道開拓の村 農村群の建物一覧
馬車鉄道の終点から先が農村群エリアです。
14もの建物が展示されています。
北海道開拓の村 旧山本消防組番屋(No.36)
36番目は、旧山本消防組番屋です。
水田農村であった山本地区の消防用具の格納庫である。消防組織は、大正8年(1919)頃からの地区の自衛団を前身とし、のち山本消防組となる。昭和45年(1970)まで消防活動を続けた建物を再現した。火の見櫓を持つ番屋は、道内農漁村の小規模な消防組織に多く見られ、防災や治安の中心となった。
木造建築メインの日本の文化に消防施設は欠かせないものです。
北海道は乾燥しやすいので特に火事には敏感だったのだと推測出来ます。
北海道開拓の村 旧若狭家たたみ倉(No.37)
37番目は、 旧若狭家たたみ倉です。
たたみ倉は主に道南の上ノ国町周辺においてみられる。倉は長方体の角材を積み重ねて外壁を作り、屋根をかけたセイロウ倉と呼ばれる構造で、北海道の建物としては特殊なものである。近在の漁家や農家が、家具調度、漁具、農具などを収納するのに用いた。
今でいう物置ですね。
こういう小さな建築物まで保存されているところは珍しいのではないでしょうか。
北海道開拓の村 旧ソーケシュマベツ駅逓所(No.38)
38番目は、 旧ソーケシュマベツ駅逓所です。
喜茂別村と徳舜瞥村(現在の大滝村)の中間地点で、明治42年(1909)から昭和9年(1934)まで営業していた官設駅逓所で、他に現存するものは少ない。駅逓は、明治・大正・昭和にかけて、荷物の搬送や郵便・宿泊などの業務を行い、北海道の開拓に大きな役割をはたした。
ソーケシュマベツという言葉からアイヌ語が元になった地名でしょう。
駅逓と言えば札幌の隣、北広島に国の重要文化財にもなっている旧島松駅逓所があります。
北海道開拓の村 旧田村家北誠館蚕種製造所(No.39)
39番目は、 旧田村家北誠館蚕種製造所です。
絹(糸)の原料になる蚕の卵(蚕種)をとる建物で、浦臼村養蚕伝習所教師であった田村忠誠が、当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考に、明治34年(1901)から同38年にかけて建築したものである。ここでは蚕種の製造販売を行うかたわら、多くの養蚕技術者を養成した。
昭和初期までは日本全国に蚕農家は結構ありましたが、今ではほとんど見かけなくなりました。ここは蚕農家ではなく、蚕を育てる人を育成した場所ということで、面白い施設だと言えます。
中は見学出来るようになっており、パネルで説明もされていました。
北海道開拓の村 旧農商務省滝川種羊場機械庫(No.40)
40番目は、旧農商務省滝川種羊場機械庫です。
名前だけだと何かよく分かりませんね。
この建物は農商務省の技師が北欧の建築様式を取り入れて設計した農業機械庫であり、大正中期に建築された種羊場の代表的な施設である。基礎には自然石を積み、小屋組は洋風構造のキングポスト・トラス組で、建物の正面と左右には下屋が設けられている。
農業機械を入れるための倉庫だったということを説明を読んでようやくわかります。
入口にはよく分からない「傘型畜力機」なるものが展示されていました。
中にはいろいろな農機具が展示されており、パネルの説明コーナーもありました。
北海道開拓の村 旧納内屯田兵屋(No.41)
41番目は、旧納内屯田兵屋です。
納内に屯田兵が入地したのは、明治28・29年である。明治8年(1875)に始まった北海道の屯田兵は、家族とともに兵村で暮し、北辺の警備と農業開拓に従事した。当初は士族を募集したが、明治23年からは主力を平民に移し、空知・上川・北見地方など北方内陸部に屯田兵村が作られていった。
屯田兵が住んでいた家屋ということですね。納内は、旭川市の西側にある町です。
北海道開拓の村 旧山田家養蚕板倉(No.42)
42番目は、旧山田家養蚕板倉です。
開拓使は、屯田兵の授産事業として養蚕を奨励し、琴似兵村ではその成果が実って、屯田兵のなかに独自の養蚕施設を持つ人も現れた。この板倉は、屯田兵として入植した山田家のもので、草創期の暮らしぶりを伝える数少ない遺構の一つである。
ちょっと説明を見ても今ひとつピンと来ないのが板倉ですよね。
板倉とは板倉工法のことで、いわゆる日本の木造建築の伝統工法のことで、その工法で作られた建物とうことになるのでしょう。
北海道開拓の村 旧信濃神社(No.43)
43番目は、旧信濃神社です。
間口が2本の柱で構成される、「一間社流れ造り」という様式で、神社建築によく用いられる。旧所在地は、長野県諏訪地方の出身者が中心となって開拓されたので信州開墾地とも呼ばれた。神社には信濃国一ノ宮諏訪大社の祭神である建御名方命を祀り、信濃神社と命名した。
神社まで移築しているとは驚きです。
そして神社だけなく石碑や石像まで
更に鳥居も手水舎もあります。
極めつけは狛犬様まであることです。
現在の信濃神社は北海道開拓の村からほど近い場所にありますので、車で来られていたら帰りに立ち寄ってみるのも良いのではないでしょうか?
特にご夫婦で来られているのであれば夫婦円満にご利益のある神社で有名です。
詳しくは下記記事をご覧ください。
北海道開拓の村 旧岩間家農家住宅(No.44)
44番目は、旧岩間家農家住宅です。
岩間家は旧仙台藩亘理領(宮城県亘理町)の士族移民団の一員として、明治4年(1871)2月に入植した畑作農家である。この建物は明治15年(1882)に郷里の大工によって建築され、構造・間取り共に仙台地方の特徴を受け継いでいる。旧領主が時おり立寄った由緒ある家である。
いわゆる農家の家で比較的良いものだったと推測出来ます。
北海道開拓の村 旧河西家米倉(No.45)
45番目は、旧河西家米倉です。
厚別地区での米作は、明治16年(1883)長野県からの移住者によって始められた。水田は付近の低湿地に造られ、明治20年代になり本格的に耕作されるようになった。この米倉は最初の移住者の一人である河西由蔵が建てたものを再現した。
いわゆる米倉です。移築ではなく再現されたものだということ。
北海道開拓の村 旧樋口家農家住宅(No.46)
46番目は、旧樋口家農家住宅です。
樋口家は富山県から移住した水田農家で、明治26年(1893)に入植し5年目にこの家を建てた。富山出身の棟梁に建築を依頼し郷里の建築様式であるワクノウチ造りを取り入れ、材料は近くの原始林から切り出したという。復元に際し、同じ建築様式の山口家の解体材もあわせて使用した。
割と大きな家でした。
庭の部分には井戸や何か農機具のようなものも展示されていました。
北海道開拓の村 旧小川家酪農畜舎(No.47)
47番目は、旧小川家酪農畜舎です。
この畜舎は、大正末期に札幌農学校出身の小川三策がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもので、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造が特徴である。また、軟石サイロはのちに厚別の農家より譲りうけて移築したものである。
一般の人だと北海道農家=酪農というイメージがあると思います。そういう意味では北海道らしい建築物に見えます。
青い屋根に牛の人形、良い組み合わせですよね。
中を見学することも出来ます。
北海道開拓の村 旧菊田家農家住宅(No.48)
48番目は、旧菊田家農家住宅です。
明治19年(1886)、新潟県長岡の有力者であった大橋一蔵や関矢孫左衛門などは北越植民者を組織し、野幌原野開拓を計画した。この建物は、その一員の新潟県魚沼郡出身者が、移住直後の明治26年(1893)頃に建築し、後に同じく南浦原郡出身の初代菊田常吉が買い受けて移築したものである。
茅葺屋根は北海道ではあまり見ないのである意味貴重だと思うのですが、説明にかかれていないということはそれほど貴重では無いのかもしれません。
中に入って見学することも出来ます。中には当時の食卓の風景が再現されていました。
北海道開拓の村 開拓小屋(No.49)
49番目は開拓小屋です。
開拓小屋は開墾小屋とも称し、移住者が最初に建てた住居である。丸太を埋め立てて柱とし、桁・梁・垂木をわたし、笹・茅などで屋根や壁を葺き、出入り口・窓にはむしろを下げた。屋内は一部が土間で、他は笹・枯草を重ねたむしろを敷いて居間とし、炉を設けた。明治期のものを再現した。
移住したばかりの時はお金が無いためか実際に見てみると本当にみすぼらしい作りの小屋です。
北海道という寒い土地でこんな家で昔は耐え忍んで暮らしていたのだと思うとただただ凄いと思いました。
北海道開拓の村 山村群の建物一覧
最後に登場するのが山村群の建物です。
いわゆる山間部の建物となります。
北海道開拓の村 森林鉄道機関庫(No.50)
50番目は、 森林鉄道機関庫です。
北海道庁は、大正8年度から拓殖計画に国有林の直営伐採事業を加え、木材搬出のための森林鉄道の敷設に着手した。その後、道内各地で建設が進められ、昭和初期には従来の流送にかわって鉄道運材が主流となり、機関車や貨車のほか、機関庫、貯木場も整備された。
木材を伐採した後に運ぶ機関車を格納しておくための倉庫です。
中に入って見学することも出来ます。
実際に丸太を積んでおくのはリアリティの追求なのでしょう。
いろいろな展示物がありましたが、頭とかぶつけそうでしたので気をつけてくださいね。
北海道開拓の村 旧平造材部飯場(No.51)
51番目は、旧平造材部飯場です。
この建物は、大正後期に下川村奥名寄の御料林内に建てられた造材飯場を再現した。造材飯場は、伐木・造材に携わった山子や集・運材作業に従事した藪出し、馬追いなどが山中で寝泊まりした小屋である。この飯場には山子と藪出しが生活し、馬追い飯場は別棟になっていた。
伐木等のために働く人が過ごした家です。
中に入ってみると、まさにタコ部屋。
こんな悪環境で昔は働いていたんですね。プライベートも何もありません。
布団1枚のスペースしか無いのに重労働を昔はさせられていたんですね。
北海道開拓の村 炭焼小屋(No.52)
52番目、最後の展示建築物は、炭焼小屋です。
北海道は、国内有数の木炭生産地で、主に黒炭が生産された。炭窯の種類は多様であるが、明治・大正期の北海道では、角窯が多く使われていた。一般に専業の炭焼きは大型の窯を、副業では小型の窯を使用していた。この炭窯は大正末期の副業製炭業者の角窯を再現した。
明治・大正と言えば暖房器具と言えば木炭を使ったものが多かったので北海道では必需品となっていた木炭。それを作る場所です。
一瞬、陶器用の窯かな?とも思える小屋で、地形を利用して作られているのが実際に見るとわかります。
なおこの辺りはかなり森の中で耳をすませば鳥のさえずりが聞こえます。
エゾリスとかも出ることもあるそうです。
山村群エリアの様子
山村群エリアは木々が多く、本当に山の中という雰囲気です。
まだ春先間もない頃にいったので木々に葉はありませんが夏になると青々とした葉で本当に森に見える場所です。
小さいダムもあります。
どんぐりばしという名前の吊橋もありました。
北海道開拓の村の他の施設・建物
こどもの広場と軽食堂
市街地群エリアと漁村群エリアの間に「こどもの広場」そして近くに軽食堂があります。
こどもの広場は竹馬等も置いてあり童心にかえって遊ぶのも良いかもしれませんよ。
軽食堂は夏季のみの営業で概ねゴールデンウィークくらいからの営業です。
北海道開拓の村 食堂
北海道開拓の村に入って右側に食堂があります。
平日でも予想以上に人がいました。
注文はレジで事前にチケットを購入するタイプです。
メニューは上記の通り。
ラーメンやカレー、定食といった一般的なメニューです。
その中で気になったのが
えぞ鹿ジンギスカン定食(1300円)です。
ジンギスカンと言えば羊肉ですが、えぞ鹿を使ったジンギスカンということでいただきました。お味はえぞ鹿なんて食べ慣れていないので少し癖はあるものの、こういうのも好きな人はいるだろうなという野趣ある味わいでした。
そして取材は2名で行っていましたのでもう1人は屯田兵定食(1200円)を注文していました。
いしもちという北海道の名物とおでん、そしてニシンのそぼろご飯という組み合わせです。
お味は至って普通ということでしたがニシンのそぼろご飯は少し癖があってしょっぱくて食べにくいということでした。
まあ食物は好みがありますからね。
北海道開拓の村に行こう!
北海道開拓の村の様子はかなり伝わったと思いますが、古い建物に興味がある、古い建物が好きだ!という人ならかなり満足出来る施設です。
古い建物にはあまり興味は無いけど北海道の昔の雰囲気を楽しみたいという方も楽しめる場所になっています。
札幌観光と言えば札幌市中心部が多いですが少し郊外に出て楽しんで見るのもおすすめです。近くには北海道博物館もあります。
新札幌にも近いので新札幌でレンタカーを借りて来ることも出来る場所です。
新札幌は新千歳空港行の快速電車も停まる駅なので、夕方以降に飛行機に乗る場合、午前中から午後まで開拓の村で過ごすことも考えてみてはいかがでしょうか?
以上、北海道開拓の村についてでした。
なお北海道開拓の村は、サポカン編集部の「札幌おすすめ観光スポット21選」に入っています。
コメント この場所に行ったことがあるのなら是非感想を書いてくださいね。